まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

「まるっとつるがや」って?

まるっとつるがやは、2018年8月に鶴ヶ谷の有志が集まって「鶴ヶ谷まちづくりプロジェクト準備委員会」として活動を始めました。同年11月に「まるっとつるがや」という団体名が決まり、地元で活動するデザイナーによってロゴマークもデザインされ、2019年2月14日から本格的な活動を開始しています。

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まるっとつるがやは、鶴ヶ谷及び周辺地域に住む人、関わる人、それぞれがお互いの顔を知ることができる「まちづくり」を考えていきます。

地域の人に笑顔がもっとあふれるような「まちづくり」をお手伝いしていく。それが私たちの活動です。

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令和2年7月より、鶴ヶ谷2丁目鶴ヶ谷プラザビル(アーケード商店街)1階ひまわり手芸店内に居場所カフェを開店しました!

10名程度の席があり、おいしいコーヒーを用意しています。(セルフサービスで1杯100円の寄付をお願いしています)

年中無休。ショッピングの帰りなど、どなたでもお気軽においで下さい。

全ての世代でご利用ができます。また、まるっとつるがや各事業の資料を用意しており、打ち合わせで利用したり、スマホ教室も開催しています。

オリジナル屋台完成!

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マルシェ用のおしゃれな「まるっと オリジナル屋台」の試作品が完成しました。大堤沼の藤ツルも有効利用してみました。

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最少のパーツで構成されていますが、机の大きさは1.2mx0.6mで、30kg程度の荷物なら軽くクリヤ。その上ガタつきもなく折りたたみが可能です。屋根は風になびく構造にしているので多少の風でも倒れることはありません。2.1mの支柱が入る乗用車なら移動ができて1人で簡単に組み立てられます。この屋台を3台くらい作ってミニマルシェを企画中ですが、販売やリースも考えていますので興味のある方は、marutto.turugaya@gmail.com へメール下さい。

(2020/10/13)

アーケードに椅子を設置しました

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おかがさまで大好評。コロナ禍対策のためアーケード側に椅子を拡張しました。どんなに暑くても、アーケードを通り抜ける心地よい風が小さい頃の夏の記憶を思い出させてくれます。(8/24)

カフェ開店!

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午前中は「まるっと」のメンバーがみなさんとお話をしたり、豊富な経験を持つバリスタの入れたコーヒーと楽しいお話を聞いたり....(月・水・金の10:00〜)。きっと、たのしいひとときを過ごせると思います。

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  地元の歴史を学ぶ「地元学」。団地になる前はどんな場所だった?この石碑はどんな意味がある?どうしてこういう樹木が植えてあるんだろう・歴史と防災の両面を、子供たちと一緒に学んで、地域の魅力を再調整する講座。まとめた内容は冊子にして全国へ発信!    

令和2年度

愛子安養寺と大蓮寺に行ってきました - まるっとつるがや(2020/10/5)

加美郡の清水寺に行ってきました - まるっとつるがや(2020/8/15)

■まるっと地元学は3つのグループに分け、それぞれテーマに従って活動を進めていくことになりました。

  1. 大堤沼散歩コースづくり&鶴ヶ谷の産物使用の工作
  2. 安養寺窯跡
  3. 安養寺(鶴ヶ谷)お狩場&鶴ヶ谷地域水の神さま

興味のある方は、居場所カフェに是非おいで下さい。

 ■大堤沼情報 - まるっとつるがや(2020/7/28)

 ■若葉ハイツ町内会で大堤沼や安養寺についてお話をさせていただきました(2020/7/25)

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 ■第4回 大堤沼調査報告 - まるっとつるがや(2020/7/19)

 

令和元年度  

     ■ ご一緒に鶴ヶ谷を探訪してみませんか - まるっとつるがや

     ■大堤沼の調査に行ってきました。1回目 - まるっとつるがや

     ■ 2019/11/17 2回目の大堤沼の調査に行ってきました。

     ■ 2019/12/27 3回目の大堤沼の調査に行ってきました。

  ■ 2020/2/16  第1回目の地元学講座「大堤沼調査報告会」を実施します。

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     ■  大堤沼調査報告会の内容です

             地元学講座を開催しました! - まるっとつるがや

           

          当日流した大堤沼のドローン画像です

    

         当日発表した大堤沼調査報告プレゼン内容です

    

          当日発表した安養寺の秘められた歴史です

     ■  安養寺の調査日記です 安養寺調査日記 - まるっとつるがや

  ■   地元学 メンバー間の議論の様子をご紹介 - まるっとつるがや

     ■  安養寺にまつわる小萩さんの一生です 安養寺はどこにあるのか? - まるっとつるがや

     ■  安養寺の変遷です  安養寺大堤沼2.pdf - Google ドライブ

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 シニアに限らず全世代を対象にスマホ教室を開催します。よりわかりやすい解説を目指し、初歩から応用まで対話形式でその都度疑問を聞きながら進行したいと思います。シニアやスマホ初心者の方には、車がなくても買い物が自由にできるところまで。iPhoneアプリ開発がしたい方には、プログラム開発から申請作業アドバイスまでも....。

令和2年度

 ■鶴ヶ谷1丁目西町内会集会所で「インターネット教室」を開催しました。(2020/7/10)

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令和元年度


 ■  第1回目のスマホ教室が鶴ヶ谷市民センターで開催されました(2020/2/24)

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 子供たちが、学校や家庭では出会うことのない地域の方々との「出会い・つながり」を持てる場所を作りたい.....。鶴ヶ谷の公立学校内で、地域住民主体で提供する「こどもたちのためにホッとできる場所」をカフェ形式で提供する活動です。今後は少しずつ楽しいワークショップを開いて行こうと思っています。

令和2年度

 ■新型コロナウィルス感染症の影響に伴い令和2年度の放課後カフェ活動は中止になりました。

令和元年度

■ 2019/11/14 第1回目の放課後カフェが開催されました。

               

 途中の画像は無線赤外線カメラや、最新の高精度なAI技術を利用して、画像から人を認識させています。しかも64才のおじいちゃん(まるっと会員)が開発したiPhoneを使ったスマホアプリ(そこら辺の学校や企業には負けないと本人は言ってます....)。今年(2020年)から始まるデジタルネットワーク研究会では、若い人でもシニアでも希望する方にはとことんご教授しますよ!

 ■ 2019/12/24 第2回目の放課後カフェが開催されました。

      生徒たちからのアンケートで「すまいるカフェ」に決定!

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最新情報は https://www.facebook.com/numazawamichio/ をご覧下さい

 

 

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  商店街の皆さんや地域で活動するハンドメイド作家さん、クラフトデザイナーなどを中心に、県内外の出展者を迎えて開催するハンドメイドイベントです。ワークショップの開催、フードブースなども出店して賑やかなイベントを考えています。

【年に2回 2020年の開催はコロナの状況を見て実施します

私たちではもう手一杯。なので会員やボランティア募集中!! 

 まるっとつるがや入会申込書はこちらです --> まるっと会員申込書.pdf - Google ドライブ

 

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     f:id:TAKEsan:20190719112150p:plainmarutto.turugaya@gmail.com      

     f:id:TAKEsan:20190719113403p:plainまるっとつるがや m.me/marutto.tsurugaya         

        すまいるカフェ    https://www.facebook.com/numazawamichio/  

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愛子安養寺と大蓮寺に行ってきました

私が住んでいる安養寺。なぜ地名だけで肝心の寺がないのか。思えば全てがここから始まりました。

 安養寺は平安時代に建立されたものと、江戸初期に復興されたものの2つに分かれ、今回ご紹介する2つの寺院は、江戸初期に復興された方に関わりがあるらしいことが現時点でわかっています。調査した結果の裏付けとして、最終的に御住職に疑問点を伺うには、聞き手側も相当な下準備が必要です。以前この2つの寺院を訪れたときは、まだ興味本位の段階で、インターネットのみの浅い知識だったため、とてもお話しを聞くレベルではありませんでした。

 9月に大蓮寺の御住職にお会いする機会をいただき、大きな分岐点である五智の場所が推測通りであることがわかりました。その後大蓮寺の副住職が、まるっとつるがやの居場所カフェに「泰盛山安養寺」のご住職と一緒に訪ねて下さいました。1度目は、お相手する担当者が不在だったため、わざわざ2度も来ていただいてやっとお会いできました。

 さまざまな興味深いお話を聞き、一同とても感激させていただいていることを最初に報告いたします。

10月3日 泰盛山安養寺(愛子安養寺)

 江戸時代初期、安養寺を現在の安養寺地区に復興していた御住職が、境内に侵入し狩猟する武士をたしなめたところ、それに怒り焼き討ちするという情報を得たそうです。御住職はその後、本尊である聖徳太子像を背負って逃げ、最終的にここにたどり着いて開山したという由緒があります(原文は寺院の石碑に詳しく書いてあります)。御住職から、1年に一回10月3日にご開帳があるとのお話がありましたので、今回はメンバー4人と共に現地へ伺いました。

 私の住んでいる安養寺のどこかに復興された建物の元々の場所は、明確には分かっていないようです。私の中で、お坊さんに背負われてここに来た聖徳太子像は、小萩観音と共に必ず見ておきたいものの1つになっていて、当時の人々の思いを掴みたい気持ちでいっぱいでした。

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f:id:TAKEsan:20201104200239p:plain ここ下愛子の安養寺は、相変わらずステキな雰囲気を醸し出しています。私たちの土地から移植したとされる桜の古木が門前にありました。1608年以降に移って来たのですから、当時のものなら400年の桜ということですが、とても風格があります。

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 文徹和尚に背負われてここに来た聖徳太子像。お顔は少し修復されているようですが、独特な頭髪他は当時のままのようです。背負うにはちょうど良い大きさの仏像でした。逃げてきたとき、当時の御住職はどんな葛藤があったのでしょう。ここに納めてある仏像は、私たちの住んでいる地域が仙台藩の御狩場でなかったら、安養寺地区のどこかにずっと存在していたのかも知れません。ご開帳の催事は、多くの檀家の皆さんの見守る中、御住職の旋律を奏でるような読経とともに始まりました。小萩観音を見たときもそうでしたが、時空を超えて様々な声が聞こえてくるような不思議な時間を体験しました。

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 お寺にはもう一つ興味深い小さな仏像が聖徳太子像の右隣に残っています。子安観音と言い、現在は全体が修復されていました。愛子地区は五郎八(いろは)姫(伊達政宗の長女でキリスト教徒)が住んだところで、隠れキリシタン伝説が多く残っている特殊な場所です。ここ安養寺の子安観音はマリア像との言い伝えがあるようです。安養寺が愛子に移った時期と五郎八姫の生涯の年代が交差していることに気付きました。政宗はこの姫をとても大切にしていたそうで、仙台で復興された安養寺が、愛子に移った理由というのは、単純に境内に入った武士に脅されたからではなく、水面下では複雑な事情があったのかもしれません。

 思えば古安養寺は、奥州藤原氏直系の姫が終の棲家としてとどまった場所。政宗最愛の娘であり、異教徒でもあった五郎八姫は、西館殿として愛子に仮御殿を構えていたそうです。愛子安養寺はこの西館趾から近いところにあり、このあたりも何かの因果を感じないわけには行かない気配を感じます。

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10月20日 仏光山 大蓮寺

 仙台の枡江に、昔「五智」と呼ばれた場所があったようです。色々な書物を調べると、五智には、江戸中期「月耕」と呼ばれ、尾張から来たお坊さんが住んでいたとのことです。やがて高松万寿寺の初代住職となってこの地を離れた後、この建物に「大願」と呼ばれ諸国を行脚したお坊さんが住み、五智如来堂を建立。その後2代目「青願」というお坊さんが、巨大な五智如来像五体と共に、大蓮寺に移って来たといいます。

 私は、この五智という場所が愛子安養寺の元々の寺院、すなわち江戸初期に古安養寺の復興寺のあった場所ではないかと考えていました。古安養寺の復興ということは、古安養寺のなにがしかの遺物が江戸初期には残っていた可能性もあります。

 ただし、五智という地名は現在地元の方に聞いても、資料としても残っておらず、藤原相之助の書物をたどって特定はできましたが、確証が得られませんでした。そこで、大蓮寺にお伺いすることが1つの目標だったわけです。御住職にお聞きしたところ、やはり私たちが特定した場所と一致していました。ずいぶん遠回りしましたが、その時間で様々なことがわかっています。周辺が宅地に囲まれていながら、愛子安養寺のような厳粛な雰囲気が漂う杉林です。

 五智から大蓮寺に移した五体の五智如来像は、残念ながらその後の大蓮寺の火災により、すべて焼失したそうです。1度焼失してから「木食自在庵遼天和尚」(江戸時代 1735~1803年 仏師でもあり、焼失後の大蓮寺再建にも関わっている)の手によって5体復元されたとのこと。但し、その後も火災に遭い、現在残されているものはその中の2体とのことです。ご住職の話では、2体のうち左側の1体の鼻が欠けていて、2度目の火災の痕跡(運搬中の事故)ではないかとのことでした。いずれにしても一本のケヤキから削り出されたという仏像の高さは3mほどで、黒く、実に堂々としていて、とても重い「時」の経過を感じました。

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 大蓮寺に残る大願坊の墓です。側面には五智から五智如来像が大蓮寺に移った経緯、月耕や大願が五智に住んでいたことなどが書いてあるそうですが、拓本を取らなければ読み取れないようです。

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この日は地元学勉強会として、他に案内の湯豆腐店だった菅野家、燕沢善応寺、比丘尼坂を散策しました

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 大蓮寺のご住職にいただいた江戸時代の大蓮寺と周辺の茶屋を描いた絵です。この茶屋のどれかが案内の湯豆腐屋さんです。

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加美郡の清水寺に行ってきました

加美郡の清水寺(きよみずでら)へ

加美郡の清水寺とは、藤原忠衡(泉三郎忠衡)が暗殺されたあと、乳母小萩が忠衡の娘を連れて逃げ込んだところで、仙台の安養寺と深く関わりのある寺です。2020年8月15日に機会があったので地元学篠原さんと、現地へ一緒に行ってきました。加美には地元学の佐藤博子さんが住んでいます。佐藤さんとは清水寺で待ち合わせて、この寺と関わりのある萬壽山西福寺にも行ってきました。

これらの寺を説明するには「小萩物語」の原文が最も適していると思われるので、次に抜粋部分を紹介します(原本は昭和八年に発行され、著作権は切れています)。昭和初期の文章で現在では非常に読みにくいためカッコで注釈を付けています。

小萩物語抜粋

「国分玉田の安養寺に未練を残している私は、轉じて(テンジテ=転じて)捜査の方向を加美郡黒澤村の古安養寺に向ければなりませんでした。しかし古安養寺も古い址(跡)ばかりであり、元禄の頃までのこっていた本尊の虚空蔵菩薩像も、仙台の萬壽寺(まんじゅじ)に引き上げられ、何一つ手がかりはありませぬけれど、隣村清水村音(音=原稿又は校正漏れ)羽山清水寺といふがあって、これこそは小萩を郷土史的の體貌(タイボウ=姿)に仕立て世に出した根源地です。この清水寺は坂上田村麻呂が延歴中(エンリャク=782年)京都の清水観音を勅請(チョクセイ=天皇の命令を受ける)してからの地名で観音堂の清水から来た名だと伝われています。この清水村の清水寺と黒澤村の古安養寺とは、相互関係の證據(ショウコ)が見えませぬけれど、古安養寺は黒澤村の内舘という古壘(コルイ=古い砦(城))の付近にこの址(跡)がありまして、清水との距離も、さまで遠からぬ所にあります。元来黒澤の村名は、室町時代に大崎家の家臣黒澤治郎というものが居館(キョカン=住まいとしている館)を構えて居たところから出た村名なので、平安朝の末頃には、この邊一體(辺り一帯)を、平泉の一門照井氏が領知(領有して支配すること)して居たのですから、古くは黒澤という村名のなかったのは勿論、両村の區割(区割り)はなかったらしいのですから、音羽山清水寺の十一面観音堂は、安養寺に属していたものかと思われます。但し観音堂が清水寺という獨立(独立)の寺となっていた時代もあるらしいのですけれど、それはいつから、いつまでのことか不明です。清水寺での傅へ(伝え)によれば、天文一八年1549年)に大崎義隆が當寺(当寺)の無住(住職がいない)を嘆き黒澤村萬壽山西福寺退隠の洞安全龍和尚を招き、開山したとありますが、「風土記」の書上げによれば萬壽山西福寺は文禄元年1592年)(一本に享禄元年1528年)登米郡米谷村曹洞宗冷松寺の末寺として開かれたとあります。但し文禄元年が誤りで、一本の如く享禄元年に西福寺が出来たとすれば、天文十八年に清水寺を其の末寺とし得るわけだけれど京都来清水の傳説(伝説)となつてる観音堂は古来天僧の別當職(寺務を統轄する長官職)だったのですから、曹洞宗として起こった西福寺の支配に服しなかったらしいので、それがついに寛文中に至り公裁を仰ぐほどの公訴となったわけですから、私は往古(おうこ=昔)にありては天台宗の安養寺が、この清水観音堂を支配して居たであろうと信じます。この清水観音堂の十一面観音は田村麻呂の矢除観音(やよけかんのん=坂之上田村麻呂の甲の前面にかけたと伝わり寺の宝物になっている)と稱(ショウ=称)せられてるもので、高さ三寸程の銅鍍金(銅メッキ)佛ですが、この胎(ハラ)ごもりには、高さ一寸の千手観音と、同じく高さ一寸の毘沙門天が入ってます。但しこの本尊よりも古かろうと思わるる高さ三寸程の前面のみの観音像がありまして、之(これ)は堂の梁上から出たものだと言います。たしかに平安朝時代の作らしいと伝われます。これから考えても享禄や天丈頃に出来た西福寺や清水寺には関係のない古い観音堂だということが知れます。私が古安養寺関係として引っ張り出す所以でありまして、そしてその古安養寺は、国分玉田山中の古安養寺(宮城野区の安養寺)と、小萩十一面観音との連絡関係に思い合わせられる點(テン=点)があるようです。しかしここには天神の本地佛に関する伝えは無く、又古い天神社などもないようです。けれどもここの観音堂には、小萩観音に関する古文書がありまして、小萩物語郷土史化の根源となっているのです。原文の主要部分を揚げます。」.......次に原文の説明となる

この文章に関してはさらに詳細な解釈があります


 

清水寺、西福寺、内舘の場所

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清水寺と内舘の位置です。清水寺と西福時までの距離は1.5~2Kmほど。

清水寺観音堂

清水寺は周囲を杉林に囲まれた寺で、敷地内部には観音堂が主な建造物。墓所、近年建てられた本堂と庫裏、鐘楼、小さな神社がありました。

観音堂はかなり古い建物ですが、基礎が新しいことから近年修復したものと思われます。今でも黒沢地区の西福寺が管理していて、ご住職は不在でした。

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このお堂の中に2体の小さな観音様と小萩伝説の古文書が納められていることになります。坂上田村麻呂の時代に建立されたものとすれば、実に1200年以上の建物で、仙台の安養寺とほぼ同世代の建築物です。法隆寺が1300年で木造世界最古。とても大切な文化遺産ですが、県民は殆どその価値を認識していないのが悲しい。

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萬壽山 西福寺

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西福寿です。この寺の山号は「萬壽山」。黒澤安養寺と関わりのある仙台高松の萬壽寺とやはり何がしかの因果が...(篠原さん談)

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寺の由緒には開山は小萩物語の推察通り、享禄元年と記されていました。ここのご住職が清水寺を管理なされているはずですが、盆中で不在でした。

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寺の東側を流れる用水路にはドジョウとタニシが確認できました(ということは蛍が生息?)素晴らしい環境です!

古安養寺は黒澤村の内舘という古壘の付近にこの址がありまして.....

西福寿で内舘を携帯で探すと、なんとこの寺のすぐ東に下黒沢内舘跡が確認できました。付近の民家で訪ねると確かに古い城跡と言い伝えがあるとのことです。昭和八年当時はこの辺りに仙台高松萬壽寺に移された虚空蔵菩薩像のあった安養寺跡が存在していたことになります。

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内舘跡です。この風景のどこかに無くなった黒澤の安養寺が建っていたんでしょうね。

今回の考察

  • 小萩物語では、黒澤村の安養寺は昭和8年頃(小萩物語の出版年)、内舘に建物の跡が存在しているかのように説明しているが....。(「何一つ手がかりはありませぬ」と記述しているので全く存在していなかったとも取れる)
  • 藤原相之助の文書では「内舘」が、黒沢村萬壽山西福寺のすぐそばとは認識してないようで、今も当時も住職は清水寺には常駐していないはずです。また、加美郡誌(大正六年刊)中音羽山清水寺の章とほぼ同等の記述であり、さらに加美郡誌では観音堂は33年毎に開帳とあるので、現地には行っていなかった可能性が考えられます。つまり当時清水寺や安養寺跡を実際見たかどうかに疑問が残ります。
  • 清水寺が西福寺の管轄になる前に十一面観音堂が建立されていて、これが黒澤村安養寺の管轄だったとすれば、清水寺観音堂はやはり相当古いもののようだ(加美郡誌では、「建立定かなりざらしも古色蒼然。少なくも五,六百年」としている)

 清水寺は1549年(安土桃山以前)まで長い間住職不在。その寺を管轄していた萬壽山西福寺は1528年開山した寺。黒沢村の安養寺は西福寺より遙か昔に存在していて、その名残が今日見学した清水寺の観音堂。小萩物語では黒澤村の安養寺(観音堂)が仙台の安養寺と関係があるのでは?と読み取れます。小萩たちが逃げ込んだのは古文書が曖昧なことからも清水寺ではなく、黒澤安養寺か? また小萩物語P70のには、黒澤村付近では仙台の万寿寺と同じような信夫の媼の高松伝説があると記述しています

ということは、黒澤村「内舘」側にあった安養寺、今日見学した清水寺の観音堂、仙台の古安養寺、仙台の萬壽寺は 深い深い関係があって「小萩」でつながってるとでも言いましょうか…。ならばなぜ伊達綱村は萬壽寺を建立する際、小萩観音を榴ヶ岡へ移したのでしょうか?さらに仙台の萬壽寺と仙台の古安養寺は、どうやら「五智」つながりです。なぜ小萩なのか?ただ単に江戸時代の泉三郎忠衡の人気から来たものか?

仙台高松萬壽寺は、黒澤安養寺の再興であるとともに、建立の根底に流れているものは、仙台安養寺の再興であったかもしれません。となると、失われた仙台の安養寺は回り回って萬壽寺と山号を変えて残っていると言うことになりますが、さてさて.....。

 

大堤沼情報

大堤沼情報です。オモシロスポットや発見をレポートします。

2020/7/17  鶴ヶ谷1丁目西端当たりから大堤沼を眺めると、奥の方に睡蓮の群落らしいものが確認できた。雨が続いているので花はまばら。

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2020/7/27 やっとその場所が確認できた。まだ雨が続いている。睡蓮の群落は思いのほか広範囲。奥は葉の小さな菱。なかなかステキな光景です。つぼみがたくさん確認できるので晴れれば素晴らしい眺めだと思う。大堤沼はかなり深いので水底に根を張る睡蓮は、この辺りまでが限界かも知れない。

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2020/5/1  上堤湖畔の山桜が幻想的な雰囲気を醸し出している。本当に周囲がすぐに住宅地なんだろうか?

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上堤を別の場所から。この時期雑草がないので、なかなか良い雰囲気です。ここの水辺が睡蓮の群落地なんですが、夏場は全く見えなくなります。冬場の下草刈りはここに決まり!

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沼の周りは今年も見事な八重桜が....

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上堤から中堤に向かって歩くと

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中州に大きなアナが3つ。誰が掘ったのかと近づくと....。

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なんと動物の足跡。私の靴の幅とほぼ同じ。こんな住宅地の真ん中に謎の動物が住んでいる。そしてかなり大きい。

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第4回 大堤沼調査報告

第4回大堤沼調査に行ってきました

日時   :7月18日(土)10:00~  

 今回は大堤沼を少し離れて安養寺と関わりのある地域や神社、寺院を調査しました。現存する小萩観音と何かしらの関わりがあるコースです。当日は曇り時々小雨で、夏場ではありますがハイキングにはちょうど良い気温でした。

 今回のコースを含め、皆さんには3つのコースをご案内できる準備が整いましたので、順次プランを立てて案内したいと思います。

 

散策コース

・与平沼駐車場スタート

・神明社ヘ向かう

・大木皿屋敷へ

・江戸時代以降、地元で伝わっている「安養寺」跡へ

・さゆり幼稚園(鶴ヶ谷入り口)を通り高野川源流方向へ

  この道の途中が古い安養寺跡と相之助が特定した場所です

・三高第2グラウンドを通り大堤沼「下沼」へ

・枡江コミュニティーセンターで休憩

・与平沼駐車場に戻る

・宮町仙岳院 の小萩観音見学

・宮町 福澤神社へ

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今回のコースです

 

 

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与平沼駐車場スタート

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神明社境内へ 神明社は伊勢神宮系なので鳥居の形が違うそうです

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神明社から木皿山を(西側)を登る(ここは粘土が露出していた)

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五智と思われる場所に着く

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仙岳院の小萩観音像も見てきました。 お体や台座のパーツの年代が違っているような印象です。とにかく1000年以上の歴史に合掌

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宮町福澤神社 小萩観音と関係の深い神社です。比較的狭い境内に、大きな石碑がたくさんあります。昔は裕福な人々が多く住んでいた名残とか....。

 

地元学講座を開催しました!

ありがとうございました

第1回目地元学講座の内容です。予想もしなかった多くの皆様方の参加に大きな力をいただきました。皆様方からのご意見が力になりますし、今回のテーマが多くの皆さんの共通したものであると痛感しております。今後ともよろしくお願いいたします。

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1.概要

  日時 :2020年2月16日(日) 13:30~15:45

  場所 :鶴ヶ谷市民センター第一会議室(13:30~15:45)

  参加者数:男性 54人  女性 36人  合計90人

 

2.総括

 参加者が主催者・区の方々を含めて90人以上と満杯に近く盛り上がった。資料が不足して30部追加コピーとなった。それぞれの報告、講演が少しずつ押して、懇談の時間が取れなかったのが残念だった。「まるっとつるがや地元学」の方向性は少し見えてきたのではないか。少なくとも今回の取り組みで、「まるっとつるがや地元学」の周知はできたのではないか。

「まるっとつるがや」の全体の取り組みとしての世代間交流というポイントに照らし合わせてみてもこの地区の3人の先生に参加していただき、なおかつ講師より紹介までしていただけたのは大きな成果でした。

3.個別の総括

 アンケートの結果です

 ①肯定的評価が80%

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 ②参加者の感想
  • 画像が大変効果的で理解を深めました。話し方が丁寧でとても分り易かったと思います。講演内容も興味深く拝聴しました。大変な知識をいただきました。(60代、男性)
  • とても楽しく、魅力ある会でした。ありがとうございました。(70代、女性)
  • 今日のお話は子どもたちにも聞かせたい。学校で無理なら町内会、子ども会で。(50代、男性)
  • 中沼は昔良くフナが釣れた沼だった。かつて地元町内会の反対で中沼、下沼が公園化できなかった。公園になっていたらどうなったのだろうか?昭和31年頃元三高の山(丘)を散策したことを思い出した。当時より郷(ママ?)沼のガケの穴(上?)に老夫婦が住みついていて、「お茶」をすすめられたことを思い出した。(80代、男性) 
  • たいへん楽しかったです。(60代、男性)
  • 全てに於いて大満足の内容でした。欲を云えば、使用されたパワーポイントの要約プリントあれば良かったと思います。メモする時間もなく記憶だけでは勿体ないと思いました。有料でも良いです。地元に古くからかかわりのあった方々や先生方のお話は大変興味が湧き、参考になりました。次回も期待します。(70代、男性)
  • 「安養寺の不思議」素晴らしい。(60代、男性)
  • 地元学の方向性などがわかり大変良かった。(30代)
  • 時間不足。各講師とも駆け足口述で理解度低下。もっと時間に余裕のある計画を!(80代、男性)
  • 大変楽しい時間を過ごさせていただきました。生活している土地に大変な歴史を知りました。機会があればまた聞きたいものです。(60代、男性)
  • 公園をさらに整備して市民のいこいの場としていただきたい。(70代、男性)
  • 今回の勉強会報告で将来が明るく見えてきて安心したトシヨリです。(80代、女性)
  • これからもがんばってください。(60代、男性)
  • 当市民センターは毎月利用していますので、皆さまの成果を「プリント」などで入手できれば大変ありがたいです!(70代、男性)
  • 是非、地元学として、語り伝えられるよう、報告の内容を書物としてまとめてほしい。(70代、男性)
  • 鶴ヶ谷に住んで26年になります。昭和61年以来NPO団体、ラジオ体操サークル(2011年~)、元気会、畑ぴロジェクト、クリーン推進員、つるがやリフレッシュ倶楽部(ラジオ体操指導員、サブリーダー)を通じて地域の方々と関り、お世話になっています。仙台での出会い、環境に感謝しています。私の関りを地域おこしに感じているので「市長宛」で封書で届けたいと考えています。私に取り東日本大震災は3度目の大地震でした。それでも命をもらい、今までの関りを恩返しをしたいと考えているものです。(70代、女性)
  • 見学会の時は誘ってください。地元学に参加したいのですが、木曜日の夜は都合が悪いので困ってしまいます。昼なら可です。
  • 由緒ある安養寺地区。現在沼の周辺は荒れが進行。将来、本会では環境保全についてどのように考えているのか。防災も当然必要と思う。

 

 

地元学 メンバー間の議論の様子をご紹介

この記事は、メンバー間の討論の様子をご紹介します。安養寺はどこにあったのか「小萩物語」の文章を巡って意見を交わしている様子が伝わってくるでしょうか?。興味がある方はご一緒に!

ある意見...

安養寺址の特定について小萩物語を読むと P68以降に下記の記載があり、五智から北方へ渓(安養寺沢:昭和八年燕沢西部の地図の西部)に下りて行き、畑や農家の家屋、大井戸など、多少平地がある場所があり、その先に渓の南側の杉林(おそらく三高グランドまで下りてこない途中)の間がその(安養寺)古址だ」となっていました。

 

1行目「五智に来る途中で渡邊留治という老人が・・・古安養寺址は、この五智の北方34丁【330~440m】、丘陵を渓間に向かって下り、渓の南側の杉林と畑との間がその古址だとのこと」≪※1≫

3行目「あの畑は、俺らの幼少の頃までは雑木林で、その間に大きな古井戸があって、人が誤って落ちた、それでその辺に散らばっている石佛や古瓦などを投げ込んで埋めてしまって今は畑になっている」

「その他(の)石仏の類は安養寺堤の土工(事)にも多分用いたはずだ云々」 ≪※2≫

9行目「思うに井(戸)のあった辺は寺の厨(房)に近いところだったとかと考えられますから、本堂のあったところは今の農家の邸の辺かも知れません・・・農家について聞くと折々古い瓦片などが、そこここから出ると言います」 ≪※3≫

13行目「安養寺堤というのは、この遺址よりも西方の、渓谷の細流を遮断して、2段にも3段にも造られてあるので後世に築き足した・・・」  ≪※4≫

 

解釈 

≪※1≫ 「五智の北方330~440m」「渓の南側の杉林と畑との間がその古址だ」とあるので渓すなわち安養寺沢すなわち高野川の谷間ではなく、渓の南岸か南崖の途中に安養寺跡があった。つまり仙台三高の第二グランドまで下がらない所に安養寺があったと解釈できる。

≪※2≫ 雑木林の中に大きな古井戸があったが石仏や瓦などで埋められ、昭和8年より前には畑になっているので、畑の所有者、畑を耕している人が今もいるならば古井戸を発掘できる可能性がある。

    話の内容からすると石仏や瓦の量が大量にあったらしい

なお、瓦の窯跡はこの近辺だけでも6か所あったとのこと(仙台市史活用資料集Vol.4 「宮城野区の歴史探し」仙台市博物館編集発行 平成29年7月)で窯元の不良品などの瓦がここから出ている可能性については、石仏とセットになっているのでお寺が廃寺になったときに出た瓦に相違ないと思われる。

≪※3≫ 小萩物語が発行された昭和8年ごろの、老人:「渡邊留治」については冊子「鶴ケ谷」の少し前に発行された「燕沢小鶴」のP46、P47の「昭和八年 燕沢の西部の地図(昭和59年4月作成)」の左側に「安養寺跡」と近くに「渡辺留吉」の表示がある。そのすぐ北側に「安養寺堤」と「安養寺沢」がありその下流(P46)に「高野川」「タンガイ」が表示されている。

 

余談:同じ昭和8年頃に「留治」と「留吉」の違いがある。

燕沢地区の住居に長い丸で姓名が表示されており、これが昭和8年ごろの家主だったか、又はこの地図を記載した昭和59年の頃の家主だったかは、作成した星恵晃73才、嶺岸弥衛治61才の名前が家主として無い、親か親戚家族らしい姓の家主が表示されている。

従って、地図を作製した昭和59年の51年前の昭和8年当時の家主を地図に表示したと思われるので、安養寺跡の近くの小萩物語の「渡邉留治」と地図の「渡辺留吉」は同一人物かと思われる。「留」の名前は子供が多く生まれて、もうこれ以上子供はいらない場合に付けられることから、留治が生まれて、また生まれてもう一度「留」吉とした兄弟の可能性は否定できない。渡辺宅の現地調査・聞き込みか戸籍を調べるか

  ≪※4≫ これよりも西方とあるので大堤沼(仙台市:安養寺上堤)、中堤( )下堤()

は安養寺から離れていると解釈できる。

お寺を谷底に建設することはあり得ないので、現在の三高第二グランドではない。 

さらに反論...

この原文は何十回も読んだのですが、この本の説明は非常に難解です。他の部分を読んでも筆者は場所の特定をする 文章があまり得意ではないようです。
原文は
「五智へ来る途中で遭遇した渡辺 留吉の話で、五智の北方3,4丁へ渓間に向かってに下り、渓南側の杉林と畑との間 がその古跡だとのこと。」

だけです。 この文章だけでは何が何だか分かりません。そこで去年考えたのは、余計な解釈をせずにこの文書だけの判断で絵を 描くことにしました。下図のようになると思われます。(縦方向ではなく横の中間として考える)

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このことは小萩物語先頭にある作者が書いたと思われる絵図とほぼ一致します。私も当初は同じようなことを 考えたのですが、どうしてもこの図面と合ってきません。安養寺跡と書いてある右側が畑(水田)になってます。また、現 在3高から接続する道路はかなり高くなっていて、第二グラウンドが窪地のようになっていますが、大昔は下堤さえ存在 していなかった可能性があります。当然ながら昭和8年当時はあの道路はありませんでした。ですから西に見えるのは 少し離れた下堤の堤防だけでその間は林だった可能性があります。

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また五智は、やはり文章の内容とこの図から考えると、現在の丘の上の学校給食会のあたりと考えて間違いないと思い ます(つまり起点)これを今の航空写真と比べて五智から最低ライン300m付近を確認すると次のようになって、400m だと完全に3高グラウンドですが、山の起伏があるのでこのあたりであろうとは思います。

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ということで、小萩物語の説明を追っていくと第2グラウンドあたりという解釈は成り立つと思うんですが?

「安養寺堤というのは、この遺址よりも西方の、渓谷の細流を遮断して、2段にも3段にも造られてあるので後世に築き足 した・・・」 ですが遠くとは書いてありません。大堤沼は西方に存在してますよね?。この文章の意味は一番最初の沼か ら2,3回継ぎ足し工事が行われていたので、その堤防を作るときに井戸と同じように、近くにある安養寺の遺物を埋め てしまったことの説明だけだと私は解釈しています。

「お寺を谷底に建設することはあり得ないので、」ですが私も最初はそう思いました。単純に藤原相之助の足取りを再現 するとこうなることから、谷底ではあり得ない根拠は無いと思うんですが....。 つまり、当時の地形を考慮すると、北に裏山を抱えて、南側が緩い丘陵の低いところに、南向きで建っていたとも言えます。

さて、この議論の結末はどうなるんでしょう?

安養寺調査日記

前から昭和8年発行された「小萩物語」が気になっていましたが、入手方法が分かりませんでした。10月頃国会図書館のホームページで閲覧できることを知り、安養寺について概要がつかめてきました。この記事は「小萩物語」をベースに、関連する寺院や場所の確認、そして色々な発見を記述したものです。内容は調査担当者から地元学会員に送られた文章そのままなので、ご容赦願います。わくわくが伝わってきませんか?

2019年11月25日

大堤沼変遷

起源は西暦841年で、なんと平安時代に遡る。名称は時代ごとに変遷して

元禄年間:玉田湖、昭和初期:安養寺堤、現在:大堤沼

安養寺変遷

西暦1113年〜1189年の間に福島県の奥州藤原氏家臣が建立。大規模な寺院だったが1189年頃までには殆ど寺として機能しなくなった。

 1227年ごろまで藤原忠衡の娘が寺を細々と守っていた。(現在藤原忠衡に娘がいたのかどうかはっきりした資料が無い)

安養寺には建立者の妻が住んでいた可能性があり、彼女は死後仙台「高松」に葬られ、万寿寺門前にあった高松の松は、彼女の墓印と信じられていた。(高松の地名由来)

 1600年頃 仙台の松音寺の文徹和尚が安養寺復興に当たっていたが、狩猟で境内に入ってきた武士を注意したところ、その後焼き討ちするとの情報が入り本尊(聖徳太子像。そもそも安養寺開山当時の本尊は聖徳太子?)を背負って逃げてしまう。

1607年 文徹和尚は泰盛山安養寺(愛子の安養寺)として天神囲(現在の泰盛山安養寺の側とのことです)に開山

 万寿寺の初代住職は、交通の便が良い高松のあった場所で安養寺復興を願い、自身も長く安養寺境内の一部と思っていた五智に住んでいた。

 1698年 万寿寺開山

 1866年 泰盛山安養寺(愛子の安養寺)が現在の地に移った(聖徳太子像現存とのこと)

いままで、愛子の安養寺が移動先に間違いないと思っていましたが、思想的(奥深いところ)には高松の万寿寺=安養寺 らしいと言うことも分かりました。

つまり安養寺は完全に2つに分かれてしまったんですね。私的には万寿寺であってほしいと思うようになってます。

時間を見つけて、現地視察(愛子安養寺、高松万寿寺、五智跡地、大蓮寺)したいですね。

安養寺変遷については以下よりダウンロードして下さい。

         安養寺大堤沼2.pdf - Google ドライブ

2019年11月27日

昨日色々まとめたのですが、すでに安養寺を特定している方がいました
素晴らしいブログです。このブログを書いている 「今野政明」 さんってどなたかご存じないですか?
小萩物語がたくさん出てきます。考え方を変えれば、同じ資料を見ているわけですから、結論は同じと言うことになりますね。
安養寺を特定する資料が、明治以降これだけの歳月をかけても見つからない以上、地元学では、伝説あるいは昭和初期の周囲開発前の推察結果として、学術文献は過去にあるのですから、読みやすい資料をまとめるのも面白そうです。
一昨日の時系列は勘違いなどがあったのと解説が必要なので修正版を添付します。
今日「小萩物語」で藤原愛之助が安養寺を特定したコースを想定して大蓮寺から自転車で回ってみました。

まず大蓮寺

藤原相之助と当時の大蓮寺ご住職はここから安養寺を探訪する小旅行を開始します。大蓮寺にある石碑は見た限りめぼしいものはありませんでした。

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ここから「大蓮寺の裏山から嶺づたいに西へ7,8丁(770~880m)行ったところに「向小田原丘陵なる大木皿家の屋敷」があるとのこと。
現地へ行ってみると大蓮寺に裏山はありません。しょうが無いので北側を3高第2グラウンドまで山沿いをつぶさに確認してみましたが、それらしい大木皿家はありませんでした。木皿さんと言えば高松の大地主です。このあたりに大の付く木皿さんはいるわけがないとは思っていました。
そこで大木皿をネットで探してみると、与平沼の東、枡江小学校の上の方に大木皿不動産(自宅)が確認できます。行ってみると大きな敷地と蔵、敷地周囲に板塀のあるお屋敷でした。
この場所は謎の多い神明社(度々資料に出現する小さな神社)がすぐ側にありました。
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行ってみると、なんとも言えない雰囲気を持つ昔からのって感じのお屋敷でした。道路の舗装はなく、電柱と物置がなければ昭和初期の雰囲気です。

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この屋敷の左側がかなり手入れされた遊歩道になっていて、屋敷の裏は小萩物語に書いてあったような杉林になっていて、しかも小さな「ほこら」が立ってました。エ〜〜〜です。
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ほこらの廻りは土地が起伏しているので建物が建っていた雰囲気ではありません。写真では見にくいですがほこらの廻りには数本の細い榊の木が植えてあったので誰かが確実に手入れしている気配があります。ほこらの中は何もありません。でも…。小萩物語の 藤原相之助が 歩いた道ではあるようです。ここが多分五智ですね。月耕和尚に会った気がしました。ここから三,四丁北に下りて行くと、そう…3高グラウンド。
昨日までほんとうに安養寺が存在してたんだろうかってかなり疑問でしたが、もう存在してもして無くても良いような気がします。
藤原配下福島の豪族や奥州藤原氏と、この地域の関係(かなりピンポイント)、信夫の妻と小萩の関係、五智、万寿寺の高松伝説、愛子の安養寺。最終的にたどり着く3高第二グラウンド。
安養寺は2つに分かれたが起源は本来の安養寺とは少し離れた場所で現実に存在した建物かも知れない…。(今回の時系列)
さらに平安時代にすでに大堤沼が存在していた可能性がある。
これだけで壮大な歴史絵巻です。僕たちは素晴らしい地域に住んでるんですね!!

2019年11月28日

昨日「大木皿」邸へ行く前に宮城野図書館で安養寺近辺の発掘資料を図書館にあるだけピックアップして読んでみました。問題は時代背景で、斜め読みの浅い理解ではこれらの出土物は対象とする安養寺の一時代前のものだった気がします。安養寺が存在したとすればその後のものが出て来るはずなのですが(もし安養寺が同じ場所に存在していたのなら絶対出てくるハズなんですが、)そうではない…..。
で、安養寺はもともと無いんじゃないかと思いました。
ここに小萩物語の中の「五智」が出てきます。ここに住んだ代々の僧侶が伝説を元にして誇張された幻の安養寺を求めていたのではないかっていう私の仮説です。時系列を追ってみると1600年ごろある種の建物が、「五智」に建っていればつじつまが合うことに気がつきました。それで行ってみると昨日メールした写真の「ほこら」があってびっくりしたと言うような顛末です。
一番簡単なのは枡江の「大木皿」さんに聞いてみることだと思うのですが、こちらもそれなりの勉強が必要です。
また、南光台や高松、東照宮、高松周辺は、奥州藤原氏滅後に生き残った多くの女性が生活した場所であることの事実が、地名として残っていることも分かってきました(先人の努力ですが…)
深みにはまりそうな感じです。

2019年11月30日

一昨日今野政明さんの書いているブログの中で「泉と清水と白水とーその3−」を読んでいました。今の南光台の地名は昔「天ノ沢」と言われたようで沢があり、尼寺の後が残っていたようです。藤原愛之助の小萩物語P95にも「八乙女尼澤」と記述があるので、昭和初期は尼ヶ沢と言うことになります。佐藤基治の領地に平泉から流れてきた上流階級の妻たちが尼となって住み着いた可能性があるとのこと。(統治が理想的になされていたので尼たちを受け入れる土壌ができていた)信夫の妻や、忠衡の娘、その乳母の小萩たちを頂点として居住区が分かれていたと言うことでしょうか?(沼を境として東が上流階級、西が一般階級?)
 話は現実にかえって、昨日町内会設置の街灯電気代補助金申請のため電気料の請求書を探していました。たまたま見た請求書の電柱名が天ヶ崎住宅線!。うちの団地も八乙女尼澤につながってたんだと思って、現地へ行ってみました。天ヶ沢住宅線の幹線となる電柱は自由ヶ丘から小松島育児園へつながる区界の道路沿いの電柱群であることが分かりました。その中の支線の1本を何気なくたどって行くと、どこに着いたと思います?なんと大堤沼の最西端あたりでした。どうしても大堤沼につながっていたいという尼たちの「気」がそうさせたんでしょうか。小萩物語を読み始めてからおかしなことが続きます。
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ある程度自分の勉強が進むまではと思って、今まで小萩伝説の残る東照宮脇の仙岳寺や福沢神社に行くことはなかったのですが、これは挨拶が必要だ....。そこで昨日区役所の帰りに行ってみました。仙岳寺に残る子萩観音=十一面観音像はすこしお顔が見えましたが、殆ど顔の輪郭が残っていませんでした。保存が良くて素性が整っていれば、間違いなく国宝級の仏像でしょうが、あまりにも過酷な変遷をたどったためになんとなく格が下がったような印象を受けました。思えば1000年近い歴史を見ていたと言うことは驚くべきことだと思います。お顔がないのは現在までの周りに起こった災いを一身に背負ったからなのでしょうか?。それでも民衆に今でも顔を向けているのは、作られた当時の人々の願いが叶っているからなのかも知れません。f:id:TAKEsan:20200211125412j:plain福沢神社に関してはあまりにもって感じでした。間違いなく将来はなくなりそう。f:id:TAKEsan:20200211125646j:plain
小萩の残したと言われる地元伝承の歌「雨も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無しの里」から、この地域が「露無し」と呼ばれるようになったと書いてありました。今までこの歌は悲しい内容だと思っていましたが、色々調べているうちに、違っていたのだと気づきます。多分「露無し」は小萩が来る前から地名として存在してたんでしょう。つまり「今まで散々苦労してきたんだから報われないわけがない。露無しに居るのも一時で、またきっと元に戻れる」といったような非常にたくましい歌だと思えるようになりました。小萩は私たちが名前から想像するような弱々しい女性ではなく、風と共に去りぬのスカーレットオハラのような、超の付く強い人だったんです!!。
今日は安養寺から持って来たとされる蒙古の碑に行ってみます。

2019年11月30日

どうしても現地を確認しておきたい場所に、燕沢の蒙古の碑があります。なにより安養寺から持ってきたものとの伝承があるので。小萩物語P87 にこの蒙古の碑のことが書いてあって、弘安の頃(鎌倉時代)までは安養寺が今の山中に存在し、運び出した享保(江戸中期)の頃までは石碑類が安養寺に残っていたことが分かる。とあります。
その石の裏面を利用して妙典碑とするためとか……。で、率直な感想。f:id:TAKEsan:20200211125838j:plain
その通り裏には妙典一時一石の塔と書いてありました(半分埋めておく石碑だそうです)。現地を見ると、この石は裏側の方が形が整っていると思いました。で、肝心の蒙古の碑の由来文書。難解文字と言うことで色々な人が訳を試みてるようですが皆さんもっと肝心なことに気づきませんか?
いくら鎌倉と言っても、はっきり言って幼稚な字です。なんとなく私が無理して書いたような字体で、1つ1つの文字のバランスが取れてないように思うけど。どうなんでしょうか?供養のためならもう少し美しく書くのが筋だと思うのですが。f:id:TAKEsan:20200211125917j:plain
江戸中期に運んだ時点では何も書かれていなかったのかも知れません。でなかったら彫り師の卵が安養寺にあった石を練習用に使ったとか….。偽作説があるのもうなずけます。何回みてもちょっとうなずけない。とにかく今は安養寺から持ってきた石であることが重要なので、このあたりは無視。
元々善応寺の近くに埋めてあったとのことで、安養寺跡が3高第二グラウンドだとすれば目と鼻の先であることは分かりました。石が大きいので近くであることが重要だと思います。この碑の廻りに大きくて同じような年月を感じる石がたくさんあります。案外これらも安養寺から運んだものかもしれません。
ウィキペディアには https://ja.wikipedia.org/wiki/燕沢碑#cite_ref-6「もと、近在小田原村の安養寺境内に建てられ、慶長13年(1608年)に同寺が焼失した際に埋められたが、その後農夫によって発掘されたと伝えられており[6]、」         [6] 田村「蒙古之碑」。なお、安養寺は後に下愛子村に移転している。(田村桃渓「蒙古之碑」(『宮城県百科事典』)と記述されていますが1608年同寺が焼失したなんて文章今まで調べた中では出てきません。明日は河北新報社昭和57年発刊の宮城百科事典を探してきます。それと下堤沼がいつ頃作られたかが最後の焦点です。案外安養寺は沼底かも知れません。
それを見つけたら少し休んでしばらく本業の方に移りたいと思ってます。 
毎日でかい容量の写真ばかり送ってすいません。今日は昨日の検証の続きで、最後の疑問部分です。

2019年12月1日

まず下堤沼(便宜上大堤沼の一番東の沼)がいつ頃造られたのかです。これで話が大分変わってきます。
昨日までの調査で大堤沼と称する沼の東端から安養寺が始まっているのがつかめました。
宮城野図書館に明治40年の地図が公開されています。一応比較用に与平沼新堤(当時は増絵小学校に沼があったがこれを新堤と記述あり)から北に直線を引きます。
 
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色々探したのですが、地元学の「伝えたい東仙台」のなかに明治28年の地図が載っています。これも同じように線を引くと
(この地図で四角で囲んだ安養寺跡はこの本の出版時に書き足したもので五智に当たります。つまり月耕和尚の庵と勘違いしています)
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与平沼の新堤の位置が少し違ってます。これは明治中期の測量誤差と思われますが、それを差し引いてもどうやら明治28年以前は大堤沼の下堤沼が無いと思いませんか?
無いとすればここが幻の安養寺?(沼底)去年の堤防工事の時に市に一言言えばある程度調査させてくれたかも知れませんね。でも、時すでに遅し…。
「伝えたい東仙台」の中には地元の人の記憶で「五智」の場所まで説明されてました。つまりこの前現地を調べた場所あたりで間違いないようです。
また、「宮城百科事典」も宮城野図書館にありました。蒙古の碑で説明が載っていて
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この方は江戸初期の安養寺のことを言っていて、安養寺の伝説は良く分かっていないんですね。1608年の出所は分かりませんでした。
この記事を書いた「田村桃渓」さんですが、たぶん書道家で私が小学校低学年に通っていた書道教室の先生の旦那さんです(うっすら覚えてる)
またまたヒェーです。
一応とりあえず最終地点に近づいたようです。最後に枡江の木皿さんと、説明していただけるかどうか分かりませんが、愛子の安養寺又は新寺小路の松音寺にお話を聞きに行けばモアベターです。
安養寺に関しては「幻の安養寺」「松音寺が復興しかけた安養寺」「多分安養寺と名前の付いていた五智の月耕和尚の庵」が、地元の伝説も解説者も今残っているお寺自体も混同しているので誰に聞いても違った答えが返ってくると言うことだけは分かりました。
でも、私たちは「沼に沈んでいるかも知れない」という夢のある結論を出して終わっても良いのかも知れません。