まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

地元学 メンバー間の議論の様子をご紹介

この記事は、メンバー間の討論の様子をご紹介します。安養寺はどこにあったのか「小萩物語」の文章を巡って意見を交わしている様子が伝わってくるでしょうか?。興味がある方はご一緒に!

ある意見...

安養寺址の特定について小萩物語を読むと P68以降に下記の記載があり、五智から北方へ渓(安養寺沢:昭和八年燕沢西部の地図の西部)に下りて行き、畑や農家の家屋、大井戸など、多少平地がある場所があり、その先に渓の南側の杉林(おそらく三高グランドまで下りてこない途中)の間がその(安養寺)古址だ」となっていました。

 

1行目「五智に来る途中で渡邊留治という老人が・・・古安養寺址は、この五智の北方34丁【330~440m】、丘陵を渓間に向かって下り、渓の南側の杉林と畑との間がその古址だとのこと」≪※1≫

3行目「あの畑は、俺らの幼少の頃までは雑木林で、その間に大きな古井戸があって、人が誤って落ちた、それでその辺に散らばっている石佛や古瓦などを投げ込んで埋めてしまって今は畑になっている」

「その他(の)石仏の類は安養寺堤の土工(事)にも多分用いたはずだ云々」 ≪※2≫

9行目「思うに井(戸)のあった辺は寺の厨(房)に近いところだったとかと考えられますから、本堂のあったところは今の農家の邸の辺かも知れません・・・農家について聞くと折々古い瓦片などが、そこここから出ると言います」 ≪※3≫

13行目「安養寺堤というのは、この遺址よりも西方の、渓谷の細流を遮断して、2段にも3段にも造られてあるので後世に築き足した・・・」  ≪※4≫

 

解釈 

≪※1≫ 「五智の北方330~440m」「渓の南側の杉林と畑との間がその古址だ」とあるので渓すなわち安養寺沢すなわち高野川の谷間ではなく、渓の南岸か南崖の途中に安養寺跡があった。つまり仙台三高の第二グランドまで下がらない所に安養寺があったと解釈できる。

≪※2≫ 雑木林の中に大きな古井戸があったが石仏や瓦などで埋められ、昭和8年より前には畑になっているので、畑の所有者、畑を耕している人が今もいるならば古井戸を発掘できる可能性がある。

    話の内容からすると石仏や瓦の量が大量にあったらしい

なお、瓦の窯跡はこの近辺だけでも6か所あったとのこと(仙台市史活用資料集Vol.4 「宮城野区の歴史探し」仙台市博物館編集発行 平成29年7月)で窯元の不良品などの瓦がここから出ている可能性については、石仏とセットになっているのでお寺が廃寺になったときに出た瓦に相違ないと思われる。

≪※3≫ 小萩物語が発行された昭和8年ごろの、老人:「渡邊留治」については冊子「鶴ケ谷」の少し前に発行された「燕沢小鶴」のP46、P47の「昭和八年 燕沢の西部の地図(昭和59年4月作成)」の左側に「安養寺跡」と近くに「渡辺留吉」の表示がある。そのすぐ北側に「安養寺堤」と「安養寺沢」がありその下流(P46)に「高野川」「タンガイ」が表示されている。

 

余談:同じ昭和8年頃に「留治」と「留吉」の違いがある。

燕沢地区の住居に長い丸で姓名が表示されており、これが昭和8年ごろの家主だったか、又はこの地図を記載した昭和59年の頃の家主だったかは、作成した星恵晃73才、嶺岸弥衛治61才の名前が家主として無い、親か親戚家族らしい姓の家主が表示されている。

従って、地図を作製した昭和59年の51年前の昭和8年当時の家主を地図に表示したと思われるので、安養寺跡の近くの小萩物語の「渡邉留治」と地図の「渡辺留吉」は同一人物かと思われる。「留」の名前は子供が多く生まれて、もうこれ以上子供はいらない場合に付けられることから、留治が生まれて、また生まれてもう一度「留」吉とした兄弟の可能性は否定できない。渡辺宅の現地調査・聞き込みか戸籍を調べるか

  ≪※4≫ これよりも西方とあるので大堤沼(仙台市:安養寺上堤)、中堤( )下堤()

は安養寺から離れていると解釈できる。

お寺を谷底に建設することはあり得ないので、現在の三高第二グランドではない。 

さらに反論...

この原文は何十回も読んだのですが、この本の説明は非常に難解です。他の部分を読んでも筆者は場所の特定をする 文章があまり得意ではないようです。
原文は
「五智へ来る途中で遭遇した渡辺 留吉の話で、五智の北方3,4丁へ渓間に向かってに下り、渓南側の杉林と畑との間 がその古跡だとのこと。」

だけです。 この文章だけでは何が何だか分かりません。そこで去年考えたのは、余計な解釈をせずにこの文書だけの判断で絵を 描くことにしました。下図のようになると思われます。(縦方向ではなく横の中間として考える)

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このことは小萩物語先頭にある作者が書いたと思われる絵図とほぼ一致します。私も当初は同じようなことを 考えたのですが、どうしてもこの図面と合ってきません。安養寺跡と書いてある右側が畑(水田)になってます。また、現 在3高から接続する道路はかなり高くなっていて、第二グラウンドが窪地のようになっていますが、大昔は下堤さえ存在 していなかった可能性があります。当然ながら昭和8年当時はあの道路はありませんでした。ですから西に見えるのは 少し離れた下堤の堤防だけでその間は林だった可能性があります。

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                                       出典:国立国会図書館Webページ 郷土史研究としての「小萩ものがたり」

また五智は、やはり文章の内容とこの図から考えると、現在の丘の上の学校給食会のあたりと考えて間違いないと思い ます(つまり起点)これを今の航空写真と比べて五智から最低ライン300m付近を確認すると次のようになって、400m だと完全に3高グラウンドですが、山の起伏があるのでこのあたりであろうとは思います。

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                                    地図データ:Google ©️2019 日本

ということで、小萩物語の説明を追っていくと第2グラウンドあたりという解釈は成り立つと思うんですが?

「安養寺堤というのは、この遺址よりも西方の、渓谷の細流を遮断して、2段にも3段にも造られてあるので後世に築き足 した・・・」 ですが遠くとは書いてありません。大堤沼は西方に存在してますよね?。この文章の意味は一番最初の沼か ら2,3回継ぎ足し工事が行われていたので、その堤防を作るときに井戸と同じように、近くにある安養寺の遺物を埋め てしまったことの説明だけだと私は解釈しています。

「お寺を谷底に建設することはあり得ないので、」ですが私も最初はそう思いました。単純に藤原相之助の足取りを再現 するとこうなることから、谷底ではあり得ない根拠は無いと思うんですが....。 つまり、当時の地形を考慮すると、北に裏山を抱えて、南側が緩い丘陵の低いところに、南向きで建っていたとも言えます。

さて、この議論の結末はどうなるんでしょう?