まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

安養寺はどこにあるのか?

ボクは40年以上前からここ安養寺に住んでいます。

 昔から地名が安養寺なのに、安養寺と言うお寺が無いことがとても不思議でした。いろいろな資料を調べているうちに、この地名にはとても悲しい話が隠されていることがわかりました。

時代はさかのぼります。

 今から1000年近く前の1189年に、源 頼朝(みなもとのよりとも)により平泉征伐が実行されました。

 藤原秀衡の三男、和泉三郎忠衡(いずみさぶろうただひら=藤原忠衡)のお姫様(当時4〜5才)は、忠衡の家来である石塚民部守時(いしずかみんぶもりとき)と奥さんの小萩(こはぎ)という方に守られて、奥州藤原氏と縁があった加美郡色麻町清水寺(せいすいじ)というところに逃げ込みました。忠衡は父の遺言を守り、義経をかくまうことを主張した人で、このことが原因で、奥州藤原氏滅亡前に兄に殺されています。

 昔は敵の息の根を止めるため、子供でさえも容赦は無かったようです。この場所でお姫様と小萩さんは尼さんになります。お姫様は安養院という名前になりました。

 ここへも追っ手が来たのでしょうか?。平泉が滅亡してから16年も経過した1205年に、小萩さんの旦那さんの故郷、現在の福沢神社(宮町4丁目)付近の尼寺へ、逃げて来たと言うことです。尼寺の住職は、お姫様の境遇に同情して、奥州藤原氏直系のお寺のため、相当荒廃して痛んでいた「小田原安養寺」を改修しました。お姫様はそこに移り住み、藤原氏の菩提を弔ったといいます(戦争によりすべて死んでしまった家族や親戚に祈りを捧げる一生を選びました)。源氏に追われた人々は「定義さん」でも分かるとおり、居住地に街道から大きく外れた、誰も来ないような場所を選びます。むかしの安養寺はそんな場所だったのでしょうね。

どうやらこの「小田原安養寺」が私たちが住んでいる地名の由来と思われます。

 お姫様が仙台に逃げてきたとき、道に迷って松の根元で一夜を明かした場所が今も残っていて、小松島の薬科大学から東照宮に向かう途中の宮城第一信用金庫向かい側が、その場所のようです。そこから宮町4丁目までは今ではたいした距離ではありませんが、昔は与平沼周辺のようなさびしいところだったのかもしれません。

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 話は変わりますが、今から30年ほど前の私たちの地域は、仙台市原ノ町小田原安養寺上、中、下に地名が分かれていました。「安養寺上」は若葉ハイツや自由が丘、そして上町内会。「安養寺中」は若葉公園の上の方(安養寺窯跡あたり)から今の大堤町内会全域。「安養寺下」は 枡江コミュニティセンターから東の方でした。普通に考えて「中」の地域にお寺が存在していた可能性が大きいと思いますが。今は何も残っていません。

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                                                                                                                        地図データ:Google ©️2018 日本          

 話を戻します。小萩さんは長生きをしたようです。お姫様が43才で無くなり、彼女と平泉の殿様をとむらうため、現在の東照宮近くにお堂を建てて「十一面観世音菩薩」をまつり、彼らの冥福を祈ったそうです。その観音様は東照宮の隣にあるお寺「仙岳院」(せんがくいん)に現存しています。実に800年前の小萩さんが思いを込めた仏像です。これが今も残ってるなんて!!。

安養寺は今も残っている!!

 この話の続きと思われる面白い伝説が残っているお寺が仙台市内に現存します。愛子(あやし)にあるその名も「安養寺」。

 私たちの住んでいる場所のどこかに存在した「小田原安養寺」は、小萩さんが亡くなった後300年以上の間、だれも手入れをしない状態が続いたようです。これではダメだと(1600年頃)復興に当たった方(今も新寺小路に現存する松音寺)がいたようですが、境内に侵入し、狩猟する武士を叱ったら(1608年実際にあったことのようですが、その武士は相当やんちゃな人だったのでしょうね)、怒ったこの武士から「寺を焼いてしまうぞ」と文書でおどしの連絡が来たと言うことです。

 和尚さんは相当怖かったんでしょう。このお寺のご神体の「聖徳太子像」を背負って現在の愛子の安養寺付近に逃げてしまいました。そしてそれから200年以上経過した1866年に「愛子安養寺」が建設されたと言うことです。このお寺は大正2年に全焼し、3年後に再建されていますが、聖徳太子像は現在もまつられているそうです。1608年と言えば伊達政宗が活躍していた時代です。こんな権力を持つ武士は 政宗だったのではないかとの説もあるようです。でも誰だったのかははっきりしていません。

 私たちの地域にあった「小田原安養寺」は、時が経ち場所が変わりましたが、現在も存在していると言えます。 

もう一つのお寺

 もう一つ。私たちの住んでいる地域の南の方の高松に「萬壽寺」(まんじゅじ)が建っています。このお寺は仙台藩4代藩主「綱村」が1696年、当時住職のいなかった加美郡色麻村の安養寺から本尊「虚空蔵菩薩像」を移動して建設しました。このころは「小田原安養寺」はボロボロになって存在していた可能性がありますが、安養寺のご神体はどこか(この時代に愛子の安養寺はまだできていませんので、愛子のどこかへ)に消えていたことになります。色麻村から移動された仮のご神体は、現在萬壽寺に保存されているとのことです。

 加美郡色麻村の安養寺はお姫様がかくまわれていたお寺(清水寺)から距離的にさほど離れていなかったそうです。そしてお姫様も出家して安養院に名前を変えています。このときの住職は現在の私たちの住んでいる安養寺近くに住んでいたとのこと!!(これはほぼ間違いないそう)。みんな安養で始まります。

 綱村と言えば歌舞伎にもなった伊達騒動の渦中にあった人物。綱村は過去の歴史を学び仏教を重んじたと言われています。幕府から藩を取り潰されそうになった自分の境遇と源氏に滅亡させられた奥州藤原氏を重ね合わせたのでしょうか?。

 私たちの住んでいる地域は庭の手入れをしなければあっという間に自然に帰ります。当時の安養寺付近はつる植物や雑木林が延々と広がり、手が付けられなかった可能性があります。場所を少し変えてでも「小田原安養寺」を再建したかったという伊達藩主綱村の意思を感じます。

最後に

 無くなってしまった「小田原安養寺」は、奥州藤原氏のお姫様の願いとともに、今も(萬壽寺も入るとすれば)、3つのお寺に分かれて引き継がれていました。そして私たちの住んでいる地域「安養寺」に関連する大切な像が仙台市内2カ所のお寺で今でも確認できます。

 私たちの住んでいる地域が、世界遺産になった平泉にもつながっていたなんて。そして、あの義経の運命や奥州藤原氏の滅亡にも関連していた人たちが生活していたなんて....。とてもロマンにあふれていることだと思いませんか?

この文章が作成されてから、色々なことが分かりました。内容は2020年2月16日の地元学報告会で説明する予定です。

プレゼンの内容は順次このブログで報告します。