まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

愛子安養寺と大蓮寺に行ってきました

私が住んでいる安養寺。なぜ地名だけで肝心の寺がないのか。思えば全てがここから始まりました。

 安養寺は平安時代に建立されたものと、江戸初期に復興されたものの2つに分かれ、今回ご紹介する2つの寺院は、江戸初期に復興された方に関わりがあるらしいことが現時点でわかっています。調査した結果の裏付けとして、最終的に御住職に疑問点を伺うには、聞き手側も相当な下準備が必要です。以前この2つの寺院を訪れたときは、まだ興味本位の段階で、インターネットのみの浅い知識だったため、とてもお話しを聞くレベルではありませんでした。

 9月に大蓮寺の御住職にお会いする機会をいただき、大きな分岐点である五智の場所が推測通りであることがわかりました。その後大蓮寺の副住職が、まるっとつるがやの居場所カフェに「泰盛山安養寺」のご住職と一緒に訪ねて下さいました。1度目は、お相手する担当者が不在だったため、わざわざ2度も来ていただいてやっとお会いできました。

 さまざまな興味深いお話を聞き、一同とても感激させていただいていることを最初に報告いたします。

10月3日 泰盛山安養寺(愛子安養寺)

 江戸時代初期、安養寺を現在の安養寺地区に復興していた御住職が、境内に侵入し狩猟する武士をたしなめたところ、それに怒り焼き討ちするという情報を得たそうです。御住職はその後、本尊である聖徳太子像を背負って逃げ、最終的にここにたどり着いて開山したという由緒があります(原文は寺院の石碑に詳しく書いてあります)。御住職から、1年に一回10月3日にご開帳があるとのお話がありましたので、今回はメンバー4人と共に現地へ伺いました。

 私の住んでいる安養寺のどこかに復興された建物の元々の場所は、明確には分かっていないようです。私の中で、お坊さんに背負われてここに来た聖徳太子像は、小萩観音と共に必ず見ておきたいものの1つになっていて、当時の人々の思いを掴みたい気持ちでいっぱいでした。

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f:id:TAKEsan:20201104200239p:plain ここ下愛子の安養寺は、相変わらずステキな雰囲気を醸し出しています。私たちの土地から移植したとされる桜の古木が門前にありました。1608年以降に移って来たのですから、当時のものなら400年の桜ということですが、とても風格があります。

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 文徹和尚に背負われてここに来た聖徳太子像。お顔は少し修復されているようですが、独特な頭髪他は当時のままのようです。背負うにはちょうど良い大きさの仏像でした。逃げてきたとき、当時の御住職はどんな葛藤があったのでしょう。ここに納めてある仏像は、私たちの住んでいる地域が仙台藩の御狩場でなかったら、安養寺地区のどこかにずっと存在していたのかも知れません。ご開帳の催事は、多くの檀家の皆さんの見守る中、御住職の旋律を奏でるような読経とともに始まりました。小萩観音を見たときもそうでしたが、時空を超えて様々な声が聞こえてくるような不思議な時間を体験しました。

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 お寺にはもう一つ興味深い小さな仏像が聖徳太子像の右隣に残っています。子安観音と言い、現在は全体が修復されていました。愛子地区は五郎八(いろは)姫(伊達政宗の長女でキリスト教徒)が住んだところで、隠れキリシタン伝説が多く残っている特殊な場所です。ここ安養寺の子安観音はマリア像との言い伝えがあるようです。安養寺が愛子に移った時期と五郎八姫の生涯の年代が交差していることに気付きました。政宗はこの姫をとても大切にしていたそうで、仙台で復興された安養寺が、愛子に移った理由というのは、単純に境内に入った武士に脅されたからではなく、水面下では複雑な事情があったのかもしれません。

 思えば古安養寺は、奥州藤原氏直系の姫が終の棲家としてとどまった場所。政宗最愛の娘であり、異教徒でもあった五郎八姫は、西館殿として愛子に仮御殿を構えていたそうです。愛子安養寺はこの西館趾から近いところにあり、このあたりも何かの因果を感じないわけには行かない気配を感じます。

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10月20日 仏光山 大蓮寺

 仙台の枡江に、昔「五智」と呼ばれた場所があったようです。色々な書物を調べると、五智には、江戸中期「月耕」と呼ばれ、尾張から来たお坊さんが住んでいたとのことです。やがて高松万寿寺の初代住職となってこの地を離れた後、この建物に「大願」と呼ばれ諸国を行脚したお坊さんが住み、五智如来堂を建立。その後2代目「青願」というお坊さんが、巨大な五智如来像五体と共に、大蓮寺に移って来たといいます。

 私は、この五智という場所が愛子安養寺の元々の寺院、すなわち江戸初期に古安養寺の復興寺のあった場所ではないかと考えていました。古安養寺の復興ということは、古安養寺のなにがしかの遺物が江戸初期には残っていた可能性もあります。

 ただし、五智という地名は現在地元の方に聞いても、資料としても残っておらず、藤原相之助の書物をたどって特定はできましたが、確証が得られませんでした。そこで、大蓮寺にお伺いすることが1つの目標だったわけです。御住職にお聞きしたところ、やはり私たちが特定した場所と一致していました。ずいぶん遠回りしましたが、その時間で様々なことがわかっています。周辺が宅地に囲まれていながら、愛子安養寺のような厳粛な雰囲気が漂う杉林です。

 五智から大蓮寺に移した五体の五智如来像は、残念ながらその後の大蓮寺の火災により、すべて焼失したそうです。1度焼失してから「木食自在庵遼天和尚」(江戸時代 1735~1803年 仏師でもあり、焼失後の大蓮寺再建にも関わっている)の手によって5体復元されたとのこと。但し、その後も火災に遭い、現在残されているものはその中の2体とのことです。ご住職の話では、2体のうち左側の1体の鼻が欠けていて、2度目の火災の痕跡(運搬中の事故)ではないかとのことでした。いずれにしても一本のケヤキから削り出されたという仏像の高さは3mほどで、黒く、実に堂々としていて、とても重い「時」の経過を感じました。

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 大蓮寺に残る大願坊の墓です。側面には五智から五智如来像が大蓮寺に移った経緯、月耕や大願が五智に住んでいたことなどが書いてあるそうですが、拓本を取らなければ読み取れないようです。

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この日は地元学勉強会として、他に案内の湯豆腐店だった菅野家、燕沢善応寺、比丘尼坂を散策しました

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 大蓮寺のご住職にいただいた江戸時代の大蓮寺と周辺の茶屋を描いた絵です。この茶屋のどれかが案内の湯豆腐屋さんです。

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