まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

加美郡の清水寺に行ってきました

加美郡の清水寺(きよみずでら)へ

加美郡の清水寺とは、藤原忠衡(泉三郎忠衡)が暗殺されたあと、乳母小萩が忠衡の娘を連れて逃げ込んだところで、仙台の安養寺と深く関わりのある寺です。2020年8月15日に機会があったので地元学篠原さんと、現地へ一緒に行ってきました。加美には地元学の佐藤博子さんが住んでいます。佐藤さんとは清水寺で待ち合わせて、この寺と関わりのある萬壽山西福寺にも行ってきました。

これらの寺を説明するには「小萩物語」の原文が最も適していると思われるので、次に抜粋部分を紹介します(原本は昭和八年に発行され、著作権は切れています)。昭和初期の文章で現在では非常に読みにくいためカッコで注釈を付けています。

小萩物語抜粋

「国分玉田の安養寺に未練を残している私は、轉じて(テンジテ=転じて)捜査の方向を加美郡黒澤村の古安養寺に向ければなりませんでした。しかし古安養寺も古い址(跡)ばかりであり、元禄の頃までのこっていた本尊の虚空蔵菩薩像も、仙台の萬壽寺(まんじゅじ)に引き上げられ、何一つ手がかりはありませぬけれど、隣村清水村音(音=原稿又は校正漏れ)羽山清水寺といふがあって、これこそは小萩を郷土史的の體貌(タイボウ=姿)に仕立て世に出した根源地です。この清水寺は坂上田村麻呂が延歴中(エンリャク=782年)京都の清水観音を勅請(チョクセイ=天皇の命令を受ける)してからの地名で観音堂の清水から来た名だと伝われています。この清水村の清水寺と黒澤村の古安養寺とは、相互関係の證據(ショウコ)が見えませぬけれど、古安養寺は黒澤村の内舘という古壘(コルイ=古い砦(城))の付近にこの址(跡)がありまして、清水との距離も、さまで遠からぬ所にあります。元来黒澤の村名は、室町時代に大崎家の家臣黒澤治郎というものが居館(キョカン=住まいとしている館)を構えて居たところから出た村名なので、平安朝の末頃には、この邊一體(辺り一帯)を、平泉の一門照井氏が領知(領有して支配すること)して居たのですから、古くは黒澤という村名のなかったのは勿論、両村の區割(区割り)はなかったらしいのですから、音羽山清水寺の十一面観音堂は、安養寺に属していたものかと思われます。但し観音堂が清水寺という獨立(独立)の寺となっていた時代もあるらしいのですけれど、それはいつから、いつまでのことか不明です。清水寺での傅へ(伝え)によれば、天文一八年1549年)に大崎義隆が當寺(当寺)の無住(住職がいない)を嘆き黒澤村萬壽山西福寺退隠の洞安全龍和尚を招き、開山したとありますが、「風土記」の書上げによれば萬壽山西福寺は文禄元年1592年)(一本に享禄元年1528年)登米郡米谷村曹洞宗冷松寺の末寺として開かれたとあります。但し文禄元年が誤りで、一本の如く享禄元年に西福寺が出来たとすれば、天文十八年に清水寺を其の末寺とし得るわけだけれど京都来清水の傳説(伝説)となつてる観音堂は古来天僧の別當職(寺務を統轄する長官職)だったのですから、曹洞宗として起こった西福寺の支配に服しなかったらしいので、それがついに寛文中に至り公裁を仰ぐほどの公訴となったわけですから、私は往古(おうこ=昔)にありては天台宗の安養寺が、この清水観音堂を支配して居たであろうと信じます。この清水観音堂の十一面観音は田村麻呂の矢除観音(やよけかんのん=坂之上田村麻呂の甲の前面にかけたと伝わり寺の宝物になっている)と稱(ショウ=称)せられてるもので、高さ三寸程の銅鍍金(銅メッキ)佛ですが、この胎(ハラ)ごもりには、高さ一寸の千手観音と、同じく高さ一寸の毘沙門天が入ってます。但しこの本尊よりも古かろうと思わるる高さ三寸程の前面のみの観音像がありまして、之(これ)は堂の梁上から出たものだと言います。たしかに平安朝時代の作らしいと伝われます。これから考えても享禄や天丈頃に出来た西福寺や清水寺には関係のない古い観音堂だということが知れます。私が古安養寺関係として引っ張り出す所以でありまして、そしてその古安養寺は、国分玉田山中の古安養寺(宮城野区の安養寺)と、小萩十一面観音との連絡関係に思い合わせられる點(テン=点)があるようです。しかしここには天神の本地佛に関する伝えは無く、又古い天神社などもないようです。けれどもここの観音堂には、小萩観音に関する古文書がありまして、小萩物語郷土史化の根源となっているのです。原文の主要部分を揚げます。」.......次に原文の説明となる

この文章に関してはさらに詳細な解釈があります


 

清水寺、西福寺、内舘の場所

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清水寺と内舘の位置です。清水寺と西福時までの距離は1.5~2Kmほど。

清水寺観音堂

清水寺は周囲を杉林に囲まれた寺で、敷地内部には観音堂が主な建造物。墓所、近年建てられた本堂と庫裏、鐘楼、小さな神社がありました。

観音堂はかなり古い建物ですが、基礎が新しいことから近年修復したものと思われます。今でも黒沢地区の西福寺が管理していて、ご住職は不在でした。

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このお堂の中に2体の小さな観音様と小萩伝説の古文書が納められていることになります。坂上田村麻呂の時代に建立されたものとすれば、実に1200年以上の建物で、仙台の安養寺とほぼ同世代の建築物です。法隆寺が1300年で木造世界最古。とても大切な文化遺産ですが、県民は殆どその価値を認識していないのが悲しい。

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萬壽山 西福寺

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西福寿です。この寺の山号は「萬壽山」。黒澤安養寺と関わりのある仙台高松の萬壽寺とやはり何がしかの因果が...(篠原さん談)

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寺の由緒には開山は小萩物語の推察通り、享禄元年と記されていました。ここのご住職が清水寺を管理なされているはずですが、盆中で不在でした。

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寺の東側を流れる用水路にはドジョウとタニシが確認できました(ということは蛍が生息?)素晴らしい環境です!

古安養寺は黒澤村の内舘という古壘の付近にこの址がありまして.....

西福寿で内舘を携帯で探すと、なんとこの寺のすぐ東に下黒沢内舘跡が確認できました。付近の民家で訪ねると確かに古い城跡と言い伝えがあるとのことです。昭和八年当時はこの辺りに仙台高松萬壽寺に移された虚空蔵菩薩像のあった安養寺跡が存在していたことになります。

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内舘跡です。この風景のどこかに無くなった黒澤の安養寺が建っていたんでしょうね。

今回の考察

  • 小萩物語では、黒澤村の安養寺は昭和8年頃(小萩物語の出版年)、内舘に建物の跡が存在しているかのように説明しているが....。(「何一つ手がかりはありませぬ」と記述しているので全く存在していなかったとも取れる)
  • 藤原相之助の文書では「内舘」が、黒沢村萬壽山西福寺のすぐそばとは認識してないようで、今も当時も住職は清水寺には常駐していないはずです。また、加美郡誌(大正六年刊)中音羽山清水寺の章とほぼ同等の記述であり、さらに加美郡誌では観音堂は33年毎に開帳とあるので、現地には行っていなかった可能性が考えられます。つまり当時清水寺や安養寺跡を実際見たかどうかに疑問が残ります。
  • 清水寺が西福寺の管轄になる前に十一面観音堂が建立されていて、これが黒澤村安養寺の管轄だったとすれば、清水寺観音堂はやはり相当古いもののようだ(加美郡誌では、「建立定かなりざらしも古色蒼然。少なくも五,六百年」としている)

 清水寺は1549年(安土桃山以前)まで長い間住職不在。その寺を管轄していた萬壽山西福寺は1528年開山した寺。黒沢村の安養寺は西福寺より遙か昔に存在していて、その名残が今日見学した清水寺の観音堂。小萩物語では黒澤村の安養寺(観音堂)が仙台の安養寺と関係があるのでは?と読み取れます。小萩たちが逃げ込んだのは古文書が曖昧なことからも清水寺ではなく、黒澤安養寺か? また小萩物語P70のには、黒澤村付近では仙台の万寿寺と同じような信夫の媼の高松伝説があると記述しています

ということは、黒澤村「内舘」側にあった安養寺、今日見学した清水寺の観音堂、仙台の古安養寺、仙台の萬壽寺は 深い深い関係があって「小萩」でつながってるとでも言いましょうか…。ならばなぜ伊達綱村は萬壽寺を建立する際、小萩観音を榴ヶ岡へ移したのでしょうか?さらに仙台の萬壽寺と仙台の古安養寺は、どうやら「五智」つながりです。なぜ小萩なのか?ただ単に江戸時代の泉三郎忠衡の人気から来たものか?

仙台高松萬壽寺は、黒澤安養寺の再興であるとともに、建立の根底に流れているものは、仙台安養寺の再興であったかもしれません。となると、失われた仙台の安養寺は回り回って萬壽寺と山号を変えて残っていると言うことになりますが、さてさて.....。