まるっとつるがや

鶴ヶ谷まちづくり市民団体

安養寺調査日記

前から昭和8年発行された「小萩物語」が気になっていましたが、入手方法が分かりませんでした。10月頃国会図書館のホームページで閲覧できることを知り、安養寺について概要がつかめてきました。この記事は「小萩物語」をベースに、関連する寺院や場所の確認、そして色々な発見を記述したものです。内容は調査担当者から地元学会員に送られた文章そのままなので、ご容赦願います。わくわくが伝わってきませんか?

2019年11月25日

大堤沼変遷

起源は西暦841年で、なんと平安時代に遡る。名称は時代ごとに変遷して

元禄年間:玉田湖、昭和初期:安養寺堤、現在:大堤沼

安養寺変遷

西暦1113年〜1189年の間に福島県の奥州藤原氏家臣が建立。大規模な寺院だったが1189年頃までには殆ど寺として機能しなくなった。

 1227年ごろまで藤原忠衡の娘が寺を細々と守っていた。(現在藤原忠衡に娘がいたのかどうかはっきりした資料が無い)

安養寺には建立者の妻が住んでいた可能性があり、彼女は死後仙台「高松」に葬られ、万寿寺門前にあった高松の松は、彼女の墓印と信じられていた。(高松の地名由来)

 1600年頃 仙台の松音寺の文徹和尚が安養寺復興に当たっていたが、狩猟で境内に入ってきた武士を注意したところ、その後焼き討ちするとの情報が入り本尊(聖徳太子像。そもそも安養寺開山当時の本尊は聖徳太子?)を背負って逃げてしまう。

1607年 文徹和尚は泰盛山安養寺(愛子の安養寺)として天神囲(現在の泰盛山安養寺の側とのことです)に開山

 万寿寺の初代住職は、交通の便が良い高松のあった場所で安養寺復興を願い、自身も長く安養寺境内の一部と思っていた五智に住んでいた。

 1698年 万寿寺開山

 1866年 泰盛山安養寺(愛子の安養寺)が現在の地に移った(聖徳太子像現存とのこと)

いままで、愛子の安養寺が移動先に間違いないと思っていましたが、思想的(奥深いところ)には高松の万寿寺=安養寺 らしいと言うことも分かりました。

つまり安養寺は完全に2つに分かれてしまったんですね。私的には万寿寺であってほしいと思うようになってます。

時間を見つけて、現地視察(愛子安養寺、高松万寿寺、五智跡地、大蓮寺)したいですね。

安養寺変遷については以下よりダウンロードして下さい。

         安養寺大堤沼2.pdf - Google ドライブ

2019年11月27日

昨日色々まとめたのですが、すでに安養寺を特定している方がいました
素晴らしいブログです。このブログを書いている 「今野政明」 さんってどなたかご存じないですか?
小萩物語がたくさん出てきます。考え方を変えれば、同じ資料を見ているわけですから、結論は同じと言うことになりますね。
安養寺を特定する資料が、明治以降これだけの歳月をかけても見つからない以上、地元学では、伝説あるいは昭和初期の周囲開発前の推察結果として、学術文献は過去にあるのですから、読みやすい資料をまとめるのも面白そうです。
一昨日の時系列は勘違いなどがあったのと解説が必要なので修正版を添付します。
今日「小萩物語」で藤原愛之助が安養寺を特定したコースを想定して大蓮寺から自転車で回ってみました。

まず大蓮寺

藤原相之助と当時の大蓮寺ご住職はここから安養寺を探訪する小旅行を開始します。大蓮寺にある石碑は見た限りめぼしいものはありませんでした。

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ここから「大蓮寺の裏山から嶺づたいに西へ7,8丁(770~880m)行ったところに「向小田原丘陵なる大木皿家の屋敷」があるとのこと。
現地へ行ってみると大蓮寺に裏山はありません。しょうが無いので北側を3高第2グラウンドまで山沿いをつぶさに確認してみましたが、それらしい大木皿家はありませんでした。木皿さんと言えば高松の大地主です。このあたりに大の付く木皿さんはいるわけがないとは思っていました。
そこで大木皿をネットで探してみると、与平沼の東、枡江小学校の上の方に大木皿不動産(自宅)が確認できます。行ってみると大きな敷地と蔵、敷地周囲に板塀のあるお屋敷でした。
この場所は謎の多い神明社(度々資料に出現する小さな神社)がすぐ側にありました。
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                                                                                                                      地図データ:Google ©️2019 日本
行ってみると、なんとも言えない雰囲気を持つ昔からのって感じのお屋敷でした。道路の舗装はなく、電柱と物置がなければ昭和初期の雰囲気です。

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この屋敷の左側がかなり手入れされた遊歩道になっていて、屋敷の裏は小萩物語に書いてあったような杉林になっていて、しかも小さな「ほこら」が立ってました。エ〜〜〜です。
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ほこらの廻りは土地が起伏しているので建物が建っていた雰囲気ではありません。写真では見にくいですがほこらの廻りには数本の細い榊の木が植えてあったので誰かが確実に手入れしている気配があります。ほこらの中は何もありません。でも…。小萩物語の 藤原相之助が 歩いた道ではあるようです。ここが多分五智ですね。月耕和尚に会った気がしました。ここから三,四丁北に下りて行くと、そう…3高グラウンド。
昨日までほんとうに安養寺が存在してたんだろうかってかなり疑問でしたが、もう存在してもして無くても良いような気がします。
藤原配下福島の豪族や奥州藤原氏と、この地域の関係(かなりピンポイント)、信夫の妻と小萩の関係、五智、万寿寺の高松伝説、愛子の安養寺。最終的にたどり着く3高第二グラウンド。
安養寺は2つに分かれたが起源は本来の安養寺とは少し離れた場所で現実に存在した建物かも知れない…。(今回の時系列)
さらに平安時代にすでに大堤沼が存在していた可能性がある。
これだけで壮大な歴史絵巻です。僕たちは素晴らしい地域に住んでるんですね!!

2019年11月28日

昨日「大木皿」邸へ行く前に宮城野図書館で安養寺近辺の発掘資料を図書館にあるだけピックアップして読んでみました。問題は時代背景で、斜め読みの浅い理解ではこれらの出土物は対象とする安養寺の一時代前のものだった気がします。安養寺が存在したとすればその後のものが出て来るはずなのですが(もし安養寺が同じ場所に存在していたのなら絶対出てくるハズなんですが、)そうではない…..。
で、安養寺はもともと無いんじゃないかと思いました。
ここに小萩物語の中の「五智」が出てきます。ここに住んだ代々の僧侶が伝説を元にして誇張された幻の安養寺を求めていたのではないかっていう私の仮説です。時系列を追ってみると1600年ごろある種の建物が、「五智」に建っていればつじつまが合うことに気がつきました。それで行ってみると昨日メールした写真の「ほこら」があってびっくりしたと言うような顛末です。
一番簡単なのは枡江の「大木皿」さんに聞いてみることだと思うのですが、こちらもそれなりの勉強が必要です。
また、南光台や高松、東照宮、高松周辺は、奥州藤原氏滅後に生き残った多くの女性が生活した場所であることの事実が、地名として残っていることも分かってきました(先人の努力ですが…)
深みにはまりそうな感じです。

2019年11月30日

一昨日今野政明さんの書いているブログの中で「泉と清水と白水とーその3−」を読んでいました。今の南光台の地名は昔「天ノ沢」と言われたようで沢があり、尼寺の後が残っていたようです。藤原愛之助の小萩物語P95にも「八乙女尼澤」と記述があるので、昭和初期は尼ヶ沢と言うことになります。佐藤基治の領地に平泉から流れてきた上流階級の妻たちが尼となって住み着いた可能性があるとのこと。(統治が理想的になされていたので尼たちを受け入れる土壌ができていた)信夫の妻や、忠衡の娘、その乳母の小萩たちを頂点として居住区が分かれていたと言うことでしょうか?(沼を境として東が上流階級、西が一般階級?)
 話は現実にかえって、昨日町内会設置の街灯電気代補助金申請のため電気料の請求書を探していました。たまたま見た請求書の電柱名が天ヶ崎住宅線!。うちの団地も八乙女尼澤につながってたんだと思って、現地へ行ってみました。天ヶ沢住宅線の幹線となる電柱は自由ヶ丘から小松島育児園へつながる区界の道路沿いの電柱群であることが分かりました。その中の支線の1本を何気なくたどって行くと、どこに着いたと思います?なんと大堤沼の最西端あたりでした。どうしても大堤沼につながっていたいという尼たちの「気」がそうさせたんでしょうか。小萩物語を読み始めてからおかしなことが続きます。
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ある程度自分の勉強が進むまではと思って、今まで小萩伝説の残る東照宮脇の仙岳寺や福沢神社に行くことはなかったのですが、これは挨拶が必要だ....。そこで昨日区役所の帰りに行ってみました。仙岳寺に残る子萩観音=十一面観音像はすこしお顔が見えましたが、殆ど顔の輪郭が残っていませんでした。保存が良くて素性が整っていれば、間違いなく国宝級の仏像でしょうが、あまりにも過酷な変遷をたどったためになんとなく格が下がったような印象を受けました。思えば1000年近い歴史を見ていたと言うことは驚くべきことだと思います。お顔がないのは現在までの周りに起こった災いを一身に背負ったからなのでしょうか?。それでも民衆に今でも顔を向けているのは、作られた当時の人々の願いが叶っているからなのかも知れません。f:id:TAKEsan:20200211125412j:plain福沢神社に関してはあまりにもって感じでした。間違いなく将来はなくなりそう。f:id:TAKEsan:20200211125646j:plain
小萩の残したと言われる地元伝承の歌「雨も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無しの里」から、この地域が「露無し」と呼ばれるようになったと書いてありました。今までこの歌は悲しい内容だと思っていましたが、色々調べているうちに、違っていたのだと気づきます。多分「露無し」は小萩が来る前から地名として存在してたんでしょう。つまり「今まで散々苦労してきたんだから報われないわけがない。露無しに居るのも一時で、またきっと元に戻れる」といったような非常にたくましい歌だと思えるようになりました。小萩は私たちが名前から想像するような弱々しい女性ではなく、風と共に去りぬのスカーレットオハラのような、超の付く強い人だったんです!!。
今日は安養寺から持って来たとされる蒙古の碑に行ってみます。

2019年11月30日

どうしても現地を確認しておきたい場所に、燕沢の蒙古の碑があります。なにより安養寺から持ってきたものとの伝承があるので。小萩物語P87 にこの蒙古の碑のことが書いてあって、弘安の頃(鎌倉時代)までは安養寺が今の山中に存在し、運び出した享保(江戸中期)の頃までは石碑類が安養寺に残っていたことが分かる。とあります。
その石の裏面を利用して妙典碑とするためとか……。で、率直な感想。f:id:TAKEsan:20200211125838j:plain
その通り裏には妙典一時一石の塔と書いてありました(半分埋めておく石碑だそうです)。現地を見ると、この石は裏側の方が形が整っていると思いました。で、肝心の蒙古の碑の由来文書。難解文字と言うことで色々な人が訳を試みてるようですが皆さんもっと肝心なことに気づきませんか?
いくら鎌倉と言っても、はっきり言って幼稚な字です。なんとなく私が無理して書いたような字体で、1つ1つの文字のバランスが取れてないように思うけど。どうなんでしょうか?供養のためならもう少し美しく書くのが筋だと思うのですが。f:id:TAKEsan:20200211125917j:plain
江戸中期に運んだ時点では何も書かれていなかったのかも知れません。でなかったら彫り師の卵が安養寺にあった石を練習用に使ったとか….。偽作説があるのもうなずけます。何回みてもちょっとうなずけない。とにかく今は安養寺から持ってきた石であることが重要なので、このあたりは無視。
元々善応寺の近くに埋めてあったとのことで、安養寺跡が3高第二グラウンドだとすれば目と鼻の先であることは分かりました。石が大きいので近くであることが重要だと思います。この碑の廻りに大きくて同じような年月を感じる石がたくさんあります。案外これらも安養寺から運んだものかもしれません。
ウィキペディアには https://ja.wikipedia.org/wiki/燕沢碑#cite_ref-6「もと、近在小田原村の安養寺境内に建てられ、慶長13年(1608年)に同寺が焼失した際に埋められたが、その後農夫によって発掘されたと伝えられており[6]、」         [6] 田村「蒙古之碑」。なお、安養寺は後に下愛子村に移転している。(田村桃渓「蒙古之碑」(『宮城県百科事典』)と記述されていますが1608年同寺が焼失したなんて文章今まで調べた中では出てきません。明日は河北新報社昭和57年発刊の宮城百科事典を探してきます。それと下堤沼がいつ頃作られたかが最後の焦点です。案外安養寺は沼底かも知れません。
それを見つけたら少し休んでしばらく本業の方に移りたいと思ってます。 
毎日でかい容量の写真ばかり送ってすいません。今日は昨日の検証の続きで、最後の疑問部分です。

2019年12月1日

まず下堤沼(便宜上大堤沼の一番東の沼)がいつ頃造られたのかです。これで話が大分変わってきます。
昨日までの調査で大堤沼と称する沼の東端から安養寺が始まっているのがつかめました。
宮城野図書館に明治40年の地図が公開されています。一応比較用に与平沼新堤(当時は増絵小学校に沼があったがこれを新堤と記述あり)から北に直線を引きます。
 
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色々探したのですが、地元学の「伝えたい東仙台」のなかに明治28年の地図が載っています。これも同じように線を引くと
(この地図で四角で囲んだ安養寺跡はこの本の出版時に書き足したもので五智に当たります。つまり月耕和尚の庵と勘違いしています)
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与平沼の新堤の位置が少し違ってます。これは明治中期の測量誤差と思われますが、それを差し引いてもどうやら明治28年以前は大堤沼の下堤沼が無いと思いませんか?
無いとすればここが幻の安養寺?(沼底)去年の堤防工事の時に市に一言言えばある程度調査させてくれたかも知れませんね。でも、時すでに遅し…。
「伝えたい東仙台」の中には地元の人の記憶で「五智」の場所まで説明されてました。つまりこの前現地を調べた場所あたりで間違いないようです。
また、「宮城百科事典」も宮城野図書館にありました。蒙古の碑で説明が載っており、
この方は江戸初期の安養寺のことを言っていて、安養寺の伝説は良く分かっていないんですね。1608年の出所は分かりませんでした。
この記事を書いた「田村桃渓」さんですが、たぶん書道家で私が小学校低学年に通っていた書道教室の先生の旦那さんです(うっすら覚えてる)
またまたヒェーです。
一応とりあえず最終地点に近づいたようです。最後に枡江の木皿さんと、説明していただけるかどうか分かりませんが、愛子の安養寺又は新寺小路の松音寺にお話を聞きに行けばモアベターです。
安養寺に関しては「幻の安養寺」「松音寺が復興しかけた安養寺」「多分安養寺と名前の付いていた五智の月耕和尚の庵」が、地元の伝説も解説者も今残っているお寺自体も混同しているので誰に聞いても違った答えが返ってくると言うことだけは分かりました。
でも、私たちは「沼に沈んでいるかも知れない」という夢のある結論を出して終わっても良いのかも知れません。